OUR STORY

あの頃、そして今:
ポール・スチュアートの歴史

クラシックなエレガンスを現代的に表現

ポール・スチュアートの哲学は一貫している。「最大のブランドを目指す」のではなく、「最高のブランドを目指すこと」である。
1938年の開業以来、ポール・スチュアートは単なるファッションを超越したサルトリアの誇りを、アメリカの男性達、そしてそのパートナーである女性達にも提供し、今日的なクラシック・アメリカン・スタイルの真髄を示し続けている。
ポール・スチュアートが七十余年の長きに亘り、モダンでありながらもトレンドに堕することがなかった理由、それは「スタイルがあるということは流行を取り入れるということとは別物である」、というシンプルな信念を持ち続けたこと。また、正しいファッションの知識とTPOをわきまえたエレガンス、そして洗練された趣味によって、ポール・スチュアートの御客様は個性を正しく表現してくださる、という信頼に拠るものに他ならない。

英国のルーツをアメリカ流に解釈

ポール・スチュアートのスタイルとは、英国サヴィル・ロウにルーツをもつメンズウェアに米国式解釈を加えたもの、とCEOのマイケル・オストロフは語る。
メンズウェアは長きに亘り、進歩、革新を繰り返してきた。その中でポール・スチュアートは裕福なアメリカの男性達の従者の如く、彼らの求めに応じて提案をし、更に洗練をさせるべく方向を示し、定義をし続けた。
定義をしても強制することはなく、顧客の「ダンディ」たることへの道標となること。それはすなわち憧れのケイリー・グラントやフレッド・アステア(偶然お二人ともポール・スチュアートの顧客)に見られる「流行に流されないスタイルの中にある確固たるエレガンス」を求めること、なのである。
創業者ラルフ・オストロフ、彼の息子のポール・スチュアート・オストロフ(店の名前は彼の名前からつけられた)、長きに亘りCEOを務めたクリフォード・グロッド、そして現在のCEOであるマイケル・オストロフ。歴代四人の社長が伝え続けてきたメッセージはそれなのだ。
ロンドンのサヴィル・ロウが英国の仕立服の代名詞であるとよく引き合いに出されるが、ポール・スチュアートは「アメリカのサヴィル・ロウ」と呼ばれる。そして同時にポール・スチュアートはアメリカという国そのもののように、確固たる信念と革新的な姿勢を持ち続けている。「私達のデザインは英国の伝統に米国の視点を加えた最良の折衷主義(Eclecticism)だ。」と1988年のニューヨーク・タイムズの広告に謳った。ポール・スチュアートはやはりまた、アメリカ合衆国がそうであるように、「世界中の最高のもの」を求める。それゆえに、裏地がアンティーク調リバースムートンのイギリス空軍フライトジャケット、最高の品質のグレインカーフ素材の革小物、四本撚り糸のキャメルヘアのカーディガン、「そよ風のように軽い」ウールなどが店にある、ということになる。

ポール・スチュアート流

そして勿論世界中の最高のものを集めてくるだけではない。それら最高の素材がポール・スチュアートならではの信条を反映した柄、スタイルによって完成されるのである。「TO OUR SPECIFICATION」、すなわちポール・スチュアートらしくする、ということが施されて、ポール・スチュアートの商品となる。
「我々の使う素材は我々の魂であり、志であり、気性とも言える。」と、1980年の秋冬カタログには書かれている。
控えめかつクリーンなライン、ソフトでナチュラルな肩。ポール・スチュアートのスーツはアイビーリーグのそれとは一線を画し、身体の線に沿った優美なシルエットを描く。
またポール・スチュアートの店にあるものは他の店にあるものの一枚上を行く。それはすなわち他の店にグレイやブラウンのヘリンボーンのハリスツイードジャケットがあるとしたら、ポール・スチュアートにはオーバープレイドのハリスツイード、ディストリクト・チェック・ジャケットがある、ということだ。

ハウス・オブ・スチュアート

「ハリー・オストロフは指ぬきとともにアメリカに上陸した。」
マイケル・オストロフは1982年にニューヨーク・タイムズ紙にそう語った。彼の曽祖父はロウワー・イーストサイドに「ブロードストリートの店」という名の衣料品屋を開き、その後経営はマイケルの祖父であるラルフ・オストロフが引き継ぎ、また、1937年という大恐慌の真っただ中にその店を売り、自分の紳士服店を開いたのだが、そのときはまだ、店の名前も決まってはいなかった。
クイーンズ区のフラッシングの自宅で寛ぎながら、床の上で遊んでいる息子を見ながら、妻が息子の名前、ポール・スチュアートを店の名前にしたらどうかと提案し、店に名前がつけられた。
こうしてマディソン街から東四十五丁目に少し入ったところにポール・スチュアートがオープンしたわけだが、最初は近郊の店のようにアイビーリーグの店だった。それが1960年代初頭に現在の店のサイズまで広がっていき、独自のスタイルも確立させていった。70年代半ばにはレディスウェア部門も発足した。そして、1960年代からポール・スチュアート・オストロフは店の顔となり、1951年よりメンバーに加わったクリフォード・グロッドが店の舞台裏を仕切る存在として、アイビーリーグの店を世界的に洗練された店へと作り上げて行ったのである。

ポール・スチュアートの顧客

ポール・スチュアートを訪れる著名人の名前を挙げる、ということは基本的にしないのだが、今回この場を借りて少しだけ紹介すると、政界、財界、ハリウッド、そして音楽の世界からも幅広い世界の華やかな顧客たちがずらりと揃う。ジャズの大物たちもそうだ。マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、ロン・カーター、ビリー・テイラー、そして最近では2013年春のカタログに登場してくれたジョン・ピザレリも、皆、ポール・スチュアートで買い物を楽しんでいる。
そしてフランク・シナトラも。紳士服担当マネジャーのジョン・フェアレイはこう回想する。「我々が存じ上げるお客様の中で一番怖いお客様でした。」ポール・スチュアートではお客様からチップを受け取ってはならない、という厳格なルールが徹底しているのだが、「シナトラ様の百ドル札はお断りできませんでした。」そんな逸話も残っている。
また、作家のデイヴィッド・マッカローは自身の著書である『1776年』にも販売員のひとり、ラヴィ・カンナのことを語っている。

未来に向かって

70年以上に亘り、ポール・スチュアートはお客様に「ルック」ではなく「自信」を与え続けてきた。時と共に変化をしつつも、スタイルの基礎には忠実にあること。そして世界的でありつつも、明らかにアメリカ的であること。それがポール・スチュアートなのだ。
こうして会社がどんどん発展していったわけである。女性服部門が誕生してからはシカゴに一店舗、二店舗と店が誕生し、そしていま日本国内にも百店舗以上の売り場がある。
最高の商品、最高のサービス。それが今も昔もポール・スチュアートを支える確固たる柱なのである。
2015年夏にはワシントンDCにも新店舗が加わっている。
また、ポール・スチュアートは、それまでの歴史にはなかった、全く新しいラグジュアリー・ブランド、フィニアス・コールを加えた。これまで培ってきた歴史と伝統を再定義し、エレガントで都会的、そして独自の現代的な美意識を絶妙に再定義したフィニアス・コール。それを実現したのは、長い年月を経て確立された高級仕立ての後術、そしてモダンでスリムなシルエットの融合。シャープ、そして際立った洗練がここに生まれたのだ。
過去の歴史上、ポール・スチュアートは他のアメリカのメンズウェア・メーカーが考えもしなかったことを成し遂げてきた。品質と確信に対する厳格なコミットメント。そして誠実な態度。これによりポール・スチュアートは顧客に対し、ルックではなく揺るぎない自信を与えてきた。時と共に変化しつつも、スタイルの忠実に基盤であり続ける。また、世界的でありながらもアメリカン・スタイルを貫き通し続けてきたのである。